瀬川綜合事務所 所在地 の 「神戸市 西区 岩岡町」 について
神戸市西区でも最西部に位置する岩岡町は印路、岩岡、野中、古郷、西脇の5村からなり、昔から播磨地方への交通の要路になっていたため、古くから人々の往来があり、かなりの人が居住していたと思われます。
岩岡にある「野中の清水」は、古今集の昔から多くの和歌にも詠まれ、謡曲や狂言にも取り上げられてきた名水で、中世播磨の守護職、赤松上総介則房の定めた播磨十水の一つでもあります。
「明石名勝古事談」には、仁徳天皇御膳水であったとも記されています。
「野中の清水」 野中にわく清水。特に、播磨国印南野(いなみの)にあったという清水をいい、昔は冷たいよい水であったが、後にぬるくなったという。昔親しくて今疎遠になった人にたとえて詠む。(歌枕)(出典 広辞苑)
古今和歌集に 「いにしえの 野中の清水 ぬるけれど もとの心を 知る人ぞ汲む」 と詠まれている。
「いにしへの野中古道あらためばあらためられよ野中古道」 (桓武天皇 古今和歌集)
狂言「清水(しみず)」 茶の湯の会の準備のため、主人は太郎冠者を 「野中の清水」へ水汲みにやります。行きたくない太郎冠者は清水に鬼が出たと嘘をついて水を汲まずに戻ってきます。・・・
1690年(元禄3年)、明石藩が荒廃していた野中の清水を浚渫し制札を立てて汚すことを禁じ、藩主が茶の湯に用いたとと言われています。
また、同じ頃、大和屋忠左衛門という酒造家が酒造りの水に使い、1712年(正徳2年)に「野中清水醸造記」ができたと伝えられています。
岩岡は他の西区に属する村々と同様、江戸時代は播磨国明石郡に属し、明石藩の領地でした。
松平若狭守直明公は、越前若狭の国主より明石城主となった後は、岩岡一帯の荒廃を憂い開拓に尽くされ、岩岡興隆の基礎を造られました。住民其の遺徳を偲び、松平直明公を正建神として岩岡神社(天ヶ岡神社)に合祀しました。
台地上での新田開発は水不足のために畑作が中心となりましたが、ことに岩岡町では元禄4年(1691年)藩主松平直明の勧めでたばこの栽培が始められました。これは名産「赤坂煙草」の名で藩財政を潤しました。後の明治33年にアメリカから洋風の品種や技術を導入してタバコの生産を続け、日本の近代タバコ栽培の発祥地と称されています。
17世紀中頃の明石藩主松平日向守信之は、特に積極的に新田開発を行ったため、その威徳から村人から「日向さん」と慕われています。「明石大根」などの勧農策も行いました。
古くから「水」の便に恵まれない印南野台地でしたが、江戸時代中期以降、新田開発に伴い日本でも有数の灌漑用ため池の密集地(大小あわせて1万個を超えたようです)となりました。
明治22年に岩岡村、昭和22年に神戸市に合併、現在に至ります。
字名の「庄太夫場」について
字名は、諸大夫(朝廷の官職名)が庄太夫になったものであろうか。
諸大夫は堂上公家ではありませんが、それに次ぐ地位で堂上公家に準じ、宮家・公家・寺社などに所属する諸大夫と、朝廷に直属する諸大夫がいました。またこの諸大夫の下に侍といわれる階層があり、寺には諸大夫の上に坊官という階層がありました。これらの諸大夫・侍は朝廷に直属しているものはもちろんですが、宮家、公家、寺社などに所属しているものも官位・官職を持っているのが普通でした。
推古天皇の御代14年(606年)に、聖徳太子が法華経を講義され、その功で天皇から播磨国の水田、百町を得た事は史実とされています。お隣りの加古郡稲美町「百丁場」の百丁がその田であったと言われています。
加古川市には鶴林寺があり、聖徳太子ゆかりの寺とされています。荘園管理のための人々が居られたことは充分考えられます。